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図書新聞経済時評1998.8.

 

二〇世紀の社会主義――軍事的全体主義か

 

橋本努

 

 イギリスの歴史家ホブズボームによれば、二〇世紀はすでに終わっている。二〇世紀とは、社会主義の偉大な実験の世紀であり、それは九一年のソ連崩壊とともに終わってしまったからだ。従来のマルクス主義は、二〇世紀を資本主義から社会主義への人類史的移行期として特徴づけてきた。しかしこれはもはやナンセンスである。われわれは、「二〇世紀社会主義」をどのように総括すべきだろうか。

 この問題に正面から取り組んだ書として、いいだもも『20世紀の〈社会主義〉とは何であったか』(論創社、九七年)および、社会主義理論学会編『二〇世紀社会主義の意味を問う』(お茶の水書房、九八年)がある。興味深いことに、二書の表紙はともに、ソ連崩壊後の「レーニン像撤去」の写真である。巨大なレーニン像の解体は、まさに社会主義の否定であり、二〇世紀の終焉を象徴している。

 この二冊に依拠して現在の左翼に通底する歴史観を解釈すると、次のようになるだろう。一九世紀に「思想・運動」として始まった社会主義については、それらをすべて評価することができる。しかし、二〇世紀に「体制・国家」として存在した社会主義は、ことごとく失敗であった。これに対して二一世紀に向けての社会主義は、多様な「ローカル・ネットワーク・コミュニティ」として展望できるのであり、十分に見込みがある。ただしその場合、ソ連に代表される二〇世紀の社会主義を「真の社会主義ではなかった」と弁明することは許されない。そのような認識は、われわれが経験した歴史を免罪してしまうからである。歴史をしっかり認識し、全面的に引き受けることができなければ、新たな展望を基礎づけることはできないだろう――およそ以上のようになる。

 加藤哲郎氏によれば、二〇世紀の社会主義が失敗した理由は軍事にある。そもそも帝政ロシアにおける社会運動は非合法地下運動であり、軍事規律型の陰謀結社であった。そのためレーニンの社会主義(ボリシェヴィキ)は、軍事的社会主義という特徴をもち、軍事用語が党の思考を支配してきた。アジアでも中国や北朝鮮やベトナムでは、共産党による指導の下で、人民解放軍によって社会体制が築かれたという面が大きい。こうした中で社会主義は、全体主義の特徴を帯びたのだという。

 大藪龍介氏によれば、二〇世紀とは、反システム運動としての社会主義が資本主義世界の東方の半周辺部で生まれ、変革に挑み、そして蹉跌した時代である。生産手段の国有化、市場と商品の廃止による計画経済、プロレタリアート独裁。その現実変革性と歴史的真実性はテストに不合格であった。したがって二〇世紀の社会主義は、誤りだったということになる。

 では、ロシア革命は起こらなかった方がよかったのか。伊藤誠氏はこのように問題を投げかける。おそらく多くの人々にとって、収容所群島を生み出した社会主義など無い方がよかったのだろう。伊藤氏は、ソ連経済の経験を生かしつつ、民主的な政治社会体制をともなう計画経済を展望しているが、どこまで魅力的なビジョンなのだろうか。

 これまで社会主義者たちは、協同組合主義や小共同体主義というものを、資本主義の枠内に留まる欺瞞的な改良主義であると軽蔑してきた。それが最近になって、そうした運動を「多様な社会主義」として評価するようになった。しかしこれには民衆の方も迷惑なのではないか。現代の社会運動の多くは、社会主義を掲げるとかえって動員力を失うということを知っている。同じ運動でも、それを社会主義と呼ぶかどうかは、まさに知のヘゲモニー闘争という他ない。その意味では、社会主義はまだ過去の遺物ではないのである。

 いいだもも氏の歴史観はもっとラディカルである。今日の共産主義的目標にとって重要なことは、大量生産・大量消費・大量廃棄の体制を変革し、商品的人間の必要と欲望を大きく価値転換することである。そのためには、資本主義を民主化したり倫理化するだけでは足りない。選択は、資本主義の廃絶か、それとも人類の自滅かであるという。もしかすると、この選択は的を突いているのかもしれない。かといって、社会主義に積極的なビジョンがあるわけではない。社会主義の構想は、いまやポエティックに語るしかないのだろう。

(経済思想)